詩
「三日月の滝」
天領の地から
一両編成の黄色いディーゼルカーに乗りこむ
甘く冷たい空気を掬いながらエンジンを唸らせ
市街地から山地をめがけ走りだす
中腹にある温泉街の駅に止まると
そば饅頭の香りが心を温めてくれた
やはり幸せは黄色が運ぶのだと
独り合点する
やがて高原に木造駅舎が見えてくる
降り立つとホームから遠くに
三日月の滝が見えた
背には玖珠の山並みが控えめに腰を下ろしている
駅から駆け足で向かうと
小さなナイアガラは
胸を打つ太鼓のような演奏で僕を迎えた
そばには
都より追いし笛の名手の幸福を聞き
悲恋に身を沈めた女院を偲ばせる
笠懸の松があった
その話を知るや笛の名手は
亡骸を探し
御霊を鎮めた
女院の祀られた瀧神社は
笠懸の松の向かいに建てられ
三日月の滝を挟んでいる
(もう、誰に取られることもない)
美しきままに消えなければならなかった恋慕が
滝を三日月に抉ったのかもしれない
寒さに背を押され
帰る道すがら
何度も三日月の滝を振り返る
駅に着くと
今度は赤いディーゼルカーが入ってきた
たとえ無になろうとも
情熱は永遠の契りを結うのだと
また独り合点する
発車とともに
去りゆく滝壺から
女院の残した辞世の歌がきこえた
「笛竹のひとよの節と知るならば
吹くとも風になびかざらまし」
※「三日月の滝」は、大分県玖珠町の北山田駅近くにある。王朝の昔、醍醐天皇の孫である小松女院が身分違いの恋の果てにこの滝に入水したという話が残っている。落差は十メートルで、滝の落ち口が三日月の弧を描いている。
一発屋
生まれたら
一発勝負
終わりまで
だが
失敗はゆるされないと信仰するこの土地で
それは絶望に匹敵する存在
あるいは神よりも
負け組にクラス替えされた子も
やがて成長し受験を迎え
一発勝負のシャワーを浴び
寝床でひとりしずかに
浪人という悪夢にうなされる
いつから人は
インスタントでコンビニエントな
限界を物語るようになったのだろう
たとえ受験を越え社会に出ても
転落は容赦なく迫る
失敗すれば
目に見えぬ人間失格の烙印を押され
しかしそれは多様な生き方でもあると
救われぬ慰めに焼かれたあと
社会の墓地に埋葬される
(一発でさえ難しい人々の喘ぎが、夜な夜な聞こえる)
なぜ
競争はこんなにも
美しいのだろう
求めたからか
求められたからか
誰が
誰に
溢れかえる一発勝負の悲劇は
喜劇の脚本に書き換えられ
今日も全国各地のシアターで満員盛況
ほんとうは
繊細だね
と きみがいう
きみのほうが
と ぼくがいう
わたしはちっとも繊細じゃ
でも
うれしい
ぼくだって
うれしい
ほんとうは
ちがうかも
そのほうが
うつくしく みえる
でも
ほんとう が
うれしい
意固地だね
と ぼくがいう
きみのほうが
と きみがいう
ぼくはちっとも意固地じゃ
でも
くやしい
きみだって
くやしい
ほんとうは
そうなんだ
そのほうが
けんかも できる
でも
ほんとう は
いえない
ほんとうはね
と ぼくがいう
わたしこそ
と きみがいう
ふたりはちっとも素直じゃ
でも
知ってる
ぼくだって
わかってる
きみだって
わかってる
ほんとうは
すきなんだ
そのほうが
あいを つむげる
でも
ほんとう は
もう ひとつです
だれかに
みまもられなけば
いきていけなくなった
ひとつの いのちを
ふたりで まもろう
ほんとうは いつも
あなたのなかに あるから
絵筆
眩しすぎる木漏れ日に向かい
絵筆の先に乗せた色が
キャンバスに凪ぐ
絵筆を取るが
ふたりの時間は
まだ
動いてはいない
単色は退屈だが
混ぜると複雑になってしまう
何色かわからなくなって
揺れないはずの思いを
曖昧にする
二次元に三次元を描くために
遠近法はできた
講師の言葉に
ふたりの絵筆がリズムを取り始める
これから
絵にすることができるのか
自信が持てない
一枚の紙の上にいながら
永遠に離れてしまうかもしれないのを
窓から入ってくる微風が教える
けれど
ふたりとも
絵筆は止めなかった